じつは考えている事もやっている事もこの15年変わってなくて
レベルの差こそあれ、その都度苦しんで乗り越えてきたように思う。
いまでさえ年齢と不相応だといわれるので
昔はほとんど誰からも相手にされなかったのだが、
やりやすい部分は利用しつつも、半分は悔しさが常にあった。
今回はそのときどき、一緒に戦ってくれた人たちがきてくれた。
母が足が悪かったのでいずれは歩けなくなるだろうというので
では自営で、職人なんかいいなと思ったのが高校の時。
そういえば中学の通学路の途中に椅子の工房があったなと思ってから色々調べ、雑誌で見た家具職人というものになることにした。
それが高一の冬で、なんやかんやでここまできてしまった。
母が亡くなるまでは6年間秋田で働いた。
生きている限りは秋田にいようと思っていたが
秋田の職人はみんな目が死んでいて嫌だった。
価値観も美感も失った技術にしがみついても良い事なんてないように思うが、20そこそこの人間に発言権などないし言う気もなかった。
ある日突然自由になって、一年間は長野で山にこもって修行した。
今の自分のベースはそこで作られたように思う。
結局は師匠と決別してなお自由になってしまった。
次に京都に行って人生の師ともいえる親方に出会ってしまった。
技術というよりかは職人というものを教えていただいた。
仙台では歳の近い先輩が拾い上げてくれた。
技術でいうと圧倒的に下なのに見下しもせずに教えてくれた。
いちばんお金のないときには、寿司屋でいつも賄いを食べさせてもらった。人間とは暖かく、動物でも植物でもなく人間なのだと思う。
そのときどきの自分と共に戦ってくれた人たちの記憶の中にいるのが本当の自分だと思う。昨日はそれを繋ぎあわせるという実験だったのだが
そこに独立してから知り合った、目のきれいな人たちも加わってくれた。
昨日は母の命日であれから6年がたった。
物件を契約してから三週間、手伝ってくれた人たちがいなかったら
とても間に合わなかったので本当に感謝している。
お金が無限にあったところでこの喜びには繋がらないだろうな
あとはひたすら恩を返して行くしかないので
明日からも頑張ります。
ISUKA 加藤
…そして無料ブログの容量が限界なのでしばらく放置します。
安否はぜひアトリエまで〜笑